無になる
なんてことができますか?
あなたは出来ますか?
禅宗のえらいお坊さんたちはそれができるのだそうです。
無って何でしょう?
必要なことですか?
何かが得られるのですか?
嫌なこと全てを忘れてしまうってことですか?
そしてポジティブだけを求めるってことですか?
それとも全てを心の中から消し去ることですか?
心をそうやって空ッぽにしても大丈夫ですか?
そうでした。そもそもこのように考えないこと
それが無になることだって聞いたことを思い出しました。
禅宗の中に黄檗宗という一宗派があります
その黄檗禅はなんでも「全てを考える」
ことから禅行をして無に入っていくのだそうです。
臨斉禅や曹洞禅は「何も考えないように禅を組む」のにたいして、
思い出すことができる全てを思い起こして、
尽きたところでもう思い起こす何事もなくなって、
自然に無に入っていく・・・。
そんな禅行なのだそうです。
どちらにしても私のような俗凡人にはできるものではありません。
こういうだけでも不心得のそしりを受けるようで、
禅とは何か・無とは何か・・・などとは申そうことさえ憚られる・・・。
そんな高尚な形而上の世界が垣間見えて、正直なところ居辛い世界
だったのですが、
私も所謂「行」をしたことがあります。
禅ではありません。
あるお寺の本堂をお借りしまして、
夜中の1時から2時過ぎまで1時間、それを1年と少し。
漆黒のお堂の中、ロウソク左右に1本ずつともして
じっと観音様と向かい合って一人で座っていたのです。
(その前1時間 0:00〜1:00の間は心経を主として”お経等”を唱えていました)
そしてたどり着いた悟りの世界は私なりのものでした。
観音様のご来迎はいただけませんでしたが、私には解ったのです。
煩悩の一つも捨てられない。
捨てようとする努力さえ無駄ではないの?
それよりもなによりも、
本当は人間108煩悩全て必要なのではないの?・・・と
煩悩以外全て放棄してしまいました。
晴々と快い感覚に包まれたものです。
諦観や虚無感ではありませんが、似た感覚?でした。
それから10年くらいたって、ふっと私の眼にとびこんで来た言葉があります。
近くのお寺のご住持が、時々道端に掲示されているものなのですが、
一挙に”行”が十一年目の満願を迎えた・・と嬉しかったのを覚えています。
岩もあり、木の根もあれどさらさらと
たださらさらと 水の流れる
一人で力まないで、先達の知恵をお借りしませんか?
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